3.長時間にわたる拷問まがいの取り調べで強要された自白

8月の猛暑の中、日曜日も休まず1日平均約12時間、長い日は16時間50分もの取り調べが行なわれました。この間、疲労と睡眠不足、水も与えずそしてトイレにも行かせない。時には暴力をふるって精神的・肉体的拷問が繰り返されたのです。

「『殺しても病気で死んだと報告すればそれまでだ』と言っておどし、罵声をあびせ棍棒でなぐった。そして、連日2人1組になり3人1組のときもあった。午前、午後、晩から11時、引き続いて午前2時頃まで交替で蹴ったり、殴った。それが取り調べであった。目的は、殺人・放火等犯罪行為をなしていないのにもかかわらず、なしたという調書をデッチ上げるためだ。9月上旬であった。私は意識を失って卒倒し、意識をとりもどすと、留置場の汗臭い布団の上であった。おかしなことに足の指先と手の指先が鋭利なもので突き刺されたような感じであった。取調官がピンで突いて意識を取り戻させようとしたものに違いない」(袴田巌さんの手紙より)。

こうした苛酷な状況での取り調べが続けられたのです。外部と遮断された中での苛酷な取り調べに正常な意思と判断力を維持することに限界がきている中で,袴田さんは,自らの「生命」を守るために,「自白」せざるをえなかったのです。

この間、弁護人の接見は3人の弁護人がそれぞれ1度ずつ、しかも8月22日:7分間、8月28日:15分間、9月3日:15分間。とても短いものでした。弁護人の接見(面会)は、捜査段階の弁護活動としてもっとも重要なものです。この程度の接見では、弁護に必要な被疑者=袴田さんとの信頼関係すら築くことができたとは思われません。
弁護人がきちんと接見し、袴田さんを激励しながら、自白を強要する取り調べに対して断固たる対応をしていたらと悔やまれます。実際、このときの短い弁護士の接見であってすら、接見後の袴田巌さんは「元気を取り戻した」と県警の捜査記録に記されています。

こうして袴田さんは,逮捕されて20日目の1966(昭和41)年9月6日から9月9日の起訴までの3日間に29通もの自白調書が作成され,起訴後,10月13日までの間に16通の調書が作成されています(第2次再審請求後,証拠開示によりさらに15通もの自白調書が作成されていたことが明らかになっています)。この45通の自白調書を通してみると,袴田さんの「自白」がいかに一貫性がないものかがよくわかります。例えば,深夜専務宅に入った理由をみると,①実は専務の妻と肉体関係があり,家を新築するために放火を頼まれたというものから,②彼女との関係が専務にばれたので話し合いに行ったと変遷し,③さらにその後,母と息子と一緒に住むアパートを借りるための金目的と変遷しています。