令和6年1月16日。第6回再審公判

令和6年1月16日。第6回再審公判   弁護団の陳述

はじめに    争点の確認

 

これから、先ほど検察官が主張して点について、弁護人の反論を述べます。内容は、大きく分けて、次の 5 項目です。

1    袴田さんの左手中指の傷は、消火活動中に負ったもの

袴田さんの左手中指の傷は、刃物で切ったといえるものではなく、消火活動中に転倒又は屋根から落ちた際に生じたものであるということ。

2    袴田さんのパジャマの鑑定結果は信用できない

袴田さんのパジャマから他人の人血と放火に用いた混合油が検出されたという鑑定結果は様々な事実に照らし合わせて信用できない。

3  刃物店店員は事実に反する供述をさせられた

菊光刃物店の店員が、「写真面割」で袴田さんの写真を選んだ。その店員自身が後から自分の供述を否定して「この人には見おぼえがない」と告白した。事実に反する供述がなされていたことを示す。

4    売上金の所在を知っていることは犯人性を裏付けない

袴田さんが、売上金が被害者宅にあることを知っていたこと等は、袴田さんが犯人であるという根拠にはならないこと。

5    袴田さんの「アリバイ」を明示する証言の数々

捜査機関が隠蔽し、裁判所まで欺いた「証言」が再審手続きで開示されたことで、事件当夜の「アリバイ」が成り立った。犯人性も「5点の衣類」の証拠としての意義も完全に失われた。

1    袴田さんの左手中指の傷は、消火活動中に負ったもの

検察官の主張「犯行時に凶器で負傷した」は信用できない

(1) まともに証拠化されなかった不自然

袴田さんが、事件直後に左手中指に傷を負っていたのは事実です。

しかし、この傷は、袴田さんが消火活動を手伝っている際に、転倒したとき又は屋根から落ちたときに生じたものであり、凶器としての刃物で生じたものとは言えません。そもそも、自分でナイフを持っているのに自分の手を切るでしょうか?

この指の傷については、他にも不審な点があります。

開示されている証拠には事件直後に撮影された写真がありません。袴田さん逮捕後の昭和41年9月8日に撮影された写真があるのみです。しかも、この写真が撮影された時点では、傷は治っており、目立たなくなっていました。

袴田さんは事件直後から犯人視され、7 月 4 日には医者に連れていかれた上に、更に深夜2時にまでおよぶ取り調べを受けていました。袴田さんのケガに疑いを抱いたなら、直ちに写真撮影するはずです。そして、何らかの証拠が作られていたはずです。しかしながら、警察は事件から 2 カ月以上も経ってからやっと傷の写真を撮っているのです。なぜこのようなことになったのでしょうか。

警察官自身が、この「傷」を犯行と結びつくような重要なものと考えなかったかから、証拠化もせずに放置したのではないでしょうか。

(2) 傷の状態から見ても刃物によるものではありえない

①    福井医師「鋭いもので切った傷じゃない」

袴田さんは、左手中指の傷が腫れたので、浜北の実家に帰っていた昭和 41 年 7 月 3日、近隣の「福井医院」で治療を受けています。

事件後 3 日しか経っていませんが、傷はすでにふさがった状態でした。福井医師は、「トタンで切った」という袴田さんの申し出を受けて、疑問をいだくこともなく治療しました。また、傷の状態については後に「大した傷ではなく、ナイフとか、かみそりのような鋭いもので切ったのではなく、傷の深さも深くなかった」と供述しています(第10回)。

 

なお、検察官は、先ほどの福井医師の証言から、「鋭利なものでできた傷」であるかのような部分を抜き出して提示しました。なぜこのような証言があるのでしょうか? 福井医師は「鋭いもので切ったのではない、大した傷じゃない」と一度証言をしました。しかし、検察官と当時の裁判官が再三再四にわたる執拗な質問を繰り返すことで福井医師を誘導しました。最終的に「鋭利なもので切った」かのような証言をさせられるに至ったのです。

この経緯と問題点は、証言全体を確認していただければ、はっきりと分かります。

 

②    なぜ、いつもと違う医院に警察の嘱託医がいた?

袴田さんは、福井医院での治療の翌日、清水市の山田医院に行きました。

こがねみその従業員で、専務の叔父である水野庄次郎(第8回)に連れられて、行ったのです。水野は、従業員の怪我の際にはいつも、いとう外科病院に連れていくことにしていたのですが、このときは、いつもの病院ではなく、何故か山田医院向かいました。

そこには院長の山田医師だけでなく、警察の嘱託医である鈴木医師がいました。袴田さんが連れていかれた山田医院に、偶然、警察の嘱託医がいたとは考えられません。鈴木医師は、警察からの命令を受けて診察に立ち会ったのです。

更に、水野は診察の後に、興津派出所に袴田さんを連れて行きました。そこで袴田さんは午前 2 時までにおよぶ、長時間の取調べを受けました。

このような経緯から、水野庄次郎が警察に協力して袴田さんを山田医院に連れて行ったことは明らかです。にもかかわらず、水野は「警察からの依頼を受けた」ということを否定しました。誰の目から見ても明白なのに、です。かくも明らかなことを否定さえして、警察に協力した人物が会社にいたということは、留意しおく必要があります。

いずれにしても、山田医院で行われたのは、治療のための診察ではなく、事実上の身体検査でした。しかし、先ほど述べた通り、この時、傷の写真は撮影されませんでした。

なお、この日の診療録には、傷の大きさは1cm×4mm で、既に傷がふさがりかけていることが記載されています。

 

③    診断した医師の供述調書に残された不審

左指の傷に関連して、検察官は、山田医師の供述調書を示しました。しかし、この供述調書は、次の理由から信用できません。

先ほど検察官の示した「山田医師の供述調書」が提出されているのは、山田医師が、昭和41年12月10日に死亡し、証人尋問が出来なかったからです(16-1643死亡診断書)。提出された供述調書には「診療録」と「診断書」が添付されていました。

これら書面には不審な点が残されています。供述調書(41.8.5)の署名・印鑑と診療録の署名・印鑑が異なっているのです。ほんとうに同一人物が作成したものであるか、疑問が残ります。この署名と印鑑を弁護人は後に証拠で示します。

死亡した人物の診療録と供述調書の署名押印に相違があるとすると、その供述調書に山田医師の名前を書いたのは誰なのでしょうか?

その点にも留意しておく必要があります。

 

④    嘱託医・鈴木医師は何をしていたのか

検察官はまた、警察の嘱託医である鈴木医師の証言を示しました。

しかし同人は、診察に立ち会っただけでした。袴田さんの手を直接取って診察するという基本的な行為もしていません。

また、嘱託医の鈴木医師は、山田医師と共同で診療録を作成したなどと証言しています。ところが、この診療録は、山田医師が一人で書いたものなのです。事実、鈴木医師の署名はどこにも残されていません。

さらに同人は「鋭くなったトタンと、あまり切れない刃物を比べた場合には、傷の区別がつかない」と述べています。また、「他の指の傷の有無でトタンか刃物かの区別はできない」とも述べています。

この嘱託医の供述「トタンではなく鋭利なもので切った」などは根拠に乏しく、とても信用できません。

 

(3)袴田さんの供述はぶれも変遷もしていない

①    一貫して「消火活動中に怪我をした」と話したはず

検察官は、袴田さんが屋根から落ちた時期や、負傷したときの様子について供述を変遷させていると主張しています。その点が疑わしいということです。

しかし、袴田さんの供述が変遷したなどという主張は、事実ではありません。袴田さんは、事件直後から、周囲に対して、消火活動中に怪我をしたことを話していました。この内容は終始一貫しています。何を根拠に「変遷」というのか腑に落ちません。こがね味噌の従業員は、事件当日の朝には、袴田さんが屋根から落ちたことや、その際に怪我をしたことを袴田さんから聞いています。袴田さんは、その時もどうやって切ったかは良くわからないと言っていました(岩﨑和一、山口、第 8 回水野3-75 7)。

②    そもそも変遷するほど詳しくは分かっても語ってもいない

袴田さんは、当初から「いつ・どのように」怪我をしたのかということについて、詳細にわたって断定するような話は一切していないのです。つまり、袴田さん自身、「消火活動の最中に怪我をした」という以上のことは始めから分かっていないのです。

袴田さんは、初めて警察の取り調べを受けた際(再弁書 143)に、次のように供述しています。

「バールで土壁を壊そうと突いたときに左手がずきんと痛むのを感じ、よく見てみると左手の中指の先をけがをしていたので、滑った時にトタンで切ったと思った」

確定第一審の公判でも「傷が出来たときにはその傷に気付かなかった」と話しています。(一審28回、控訴 2 回)。

③    必死の消火作業中に詳しいことをおぼえていないのは当然

そもそも、必死に消火活動をしている中で、現場での動きを逐一記憶していなかったとしても、何ら不自然なことではありません。

また、夢中になっているときには怪我をしたことにすら気付かず、後になって気付いたときに「おそらくあの時に切ったのだろう」との推測をすること自体も、何らおかしなことではありません。

袴田さんの供述は、消火活動の際に、「屋根で足を滑らせて屋根から落ちたときに、怪我をしたと思われる」という内容で一貫しています。検察官が主張するような不合理な変遷など微塵もありません。

(4)消火活動でケガをしたのは袴田さんだけではない

しかも、消火活動の際にケガをしたのは袴田さんだけではありません。同じく消火活動を手伝った従業員の村松喜作さんや佐藤省吾も消火活動の際に怪我をしています

(再弁書261、281)。このことは、第 2 次再審請求審に至って初めて開示された証拠で明らかになりました。なぜ、このような重要証拠が、40 年以上も隠されていたのでしょうか?従業員は、消防の訓練を受けたり、消火活動の装備を身に着けていたりしていたわけではありません。火災現場において怪我をしてしまうのは、ごく自然なことです。 なお、先ほども出てきた水野庄次郎は、裁判所の尋問において、「消火作業中にケガをしたのは袴田さんのみで、他にはいなかった」などと証言しました。明らかに事実と異なる証言です。この他にも、同人は、法廷で袴田さんを犯人と決めつけるような証言を数多くしています。

このように、事件当初から「袴田さんが犯人である」という強い偏見を持った人物が工場にもいたのです。これも、事件について知る上で忘れてはならないことです。

▶まとめ    袴田さんの手の傷は、消火活動中に負ったもの

■よって    検察官の主張する「犯人性」は成り立たない。

 

2    パジャマの血こん鑑定や油の鑑定は信用できない

パジャマから人血と放火に用いた混合油が検出されたという鑑定は信用できない

概要

検察官は「鑑定により袴田さんのパジャマから、袴田さんの血液型以外の血痕が検出された・混合油の存在が確認された」と主張します。しかし、検察官が根拠とする鑑定はいずれも信用できません。パジャマには、被害者の血痕も、工場にあった混合油も付着していません。つまり、パジャマと犯行を結ぶ事実は、一切認められないのです。元々、パジャマは全く証拠価値のないものです。捜査機関もこれを十分自覚していたとしか考えられません。

(1)そもそも「パジャマ」には証拠の価値がない

袴田さんのパジャマは、昭和41年7月4日に行われた味噌工場及び従業員寮の捜索差押において任意提出されたものです。

この捜索差し押さえの目的物は「3 血痕付着の衣類及び手ぬぐいタオル等」でした。ところが、袴田さんのパジャマは、上衣に肉眼では「血痕かさびか、しょう油のしみ跡か」判断できない程度の僅かなしみかありませんでした。捜索差し押さえの目的である「血痕付着の衣類」などとはおよそ言い難い物件だったのです。

この点は後ほど写真で示します。

警察官はパジャマを強制的に押収できませんでした。「血痕付着の衣類」ではない、ただの衣料なので当然です。代わりに、袴田さんに《任意提出》させることとしましました。≪任意提出≫というのは、強制的に押収するのではなく、その人の自由意思で警察に協力するために物を預からせてもらう手続きです。袴田さんの書いた任意提出書には、「終わったら返してください」と書いてあります。ほんの少しでも血痕が付いていたら、警察官は《任意提出》など回りくどいことをせず、本来の目的どおり《押収》できたはずです。この時点で証拠としての価値のなさが露呈しています。当然警察は、パジャマが《犯行着衣》にふさわしくないことを十分認識していたはずです。

この事を別の角度から裏付ける事実があります。警察は、パジャマの鑑定が終了した後、1 カ月以上たった 8 月 18 日になってもさらに、袴田さんの親族の家など5か所を、犯行着衣を手に入れるために家宅捜索していた事実があります。パジャマに価値がないことをよく分かっていた、という外ありません。

(2)   静岡県警の血液型鑑定は信用できない

まず、前提として重要な点を述べます。

それは、本件においては、袴田さんのパジャマに人血反応が出たとしても、それは何の意味もないということです。なぜなら、検察官も認めている通り、袴田さん自身が、右腕に、袖が破れるほどのケガをしており、更に左の指にもけがをしていたのですから、袴田さんの血によって、人血反応が出ることはありえるからです。警察が、血液型の鑑定にこだわったのもまさにこの理由によります。

では、その血液型鑑定は一体どのようなものだったのでしょうか。

静岡県警鑑識課の鈴木技師は、昭和41年7月4日にパジャマの血液型鑑定に着手し、鑑定は同月8日に終了しています。その後、同月18日付で鈴木技師の鑑定書(15-1700)が作成されました。この鑑定書では、被害者と同じ血液型が検出されたことになっています。しかし、この鑑定結果は信用できるのでしょうか?当時の鑑定技術では「肉眼で見える程度の血痕があること」が血液型鑑定には不可欠でした。肉眼でよく見ても判然としない、パジャマの血痕の血液型鑑定は、当然、不可能です。

この点は、後に「5点の衣類」等についての血液型鑑定の結果を記した佐藤秀一鑑定書(17分冊)にも明らかです。佐藤鑑定書には「肉眼的に血痕の付着が認められないので血液型の検査は不能と考えられる」とあります。肉眼で見えないようでは血液型鑑定などできないということです。したがって、肉眼で血痕の付着がなかったパジャマの血液型鑑定もできたはずがありません。

本件では、最先端技術を有したはずの警察庁「科学警察研究所」ですら、血液型を検出できませんでした。これは、第 2 次再審請求審になって、検察官が初めて開示してきた証拠で明らかになりました。

なぜ、このような重要証拠が、40 年以上も隠されていたのでしょうか?

科警研でさえ鑑定できなかった血液型鑑定を、静岡県警が本当にできたのでしょうか?

本件では、7 月8日に静岡県警での鑑定が終わっているにもかかわらず、その後、7月15日に科警研に再鑑定が依頼されています。静岡県警の鈴木鑑定が信用できるのであれば、再度科警研に鑑定を依頼する必要があるでしょうか。捜査本部の記録には、「犯人側の資料より被害者の血液を証明できるはずであるという信念をもって鑑定を実施する方針を定めた」として、何としてでもパジャマから血液型を出そうとした強い意志がうかがえます。しかし、はじめから結論を決めて、それに合うものを何としても見つけてやろう、という姿勢は、科学的といえるでしょうか?捜査本部の記録には、同じところに「犯人は相当の返り血を浴びているはず」という記述との間の矛盾を振り返ることなく、しゃにむに鑑定を繰り返すような姿勢は科学的といえるでしょうか?

以上の点に、特に留意しておく必要があります。

検察官は、この裁判において、科警研の血液型鑑定ができなかった理由について、色々と推測を述べた証拠を提出しています。しかし、その検察官の証拠が明らかにしたのは、次の二つの事実です。

第一に、パジャマに着いた「血痕」なるものが、あまりにわずかで、ルミノールをかけただけで鑑定不能になる程度のものでしかなかったという事実。

第二に、付着した血痕があまりにわずかで、鑑定のために、直接ルミノールをかけざるを得なかったという事実。

いずれにしても、「パジャマの血痕」という存在を立証すること自体が不可能、という結論を導くほかありません。

(3)   パジャマ上下に混合油の存在が確認されたとの鑑定は信用できない

検察官は、工場にあった「混合油」が放火に使われたという前提に立ち、この混合油が袴田さんのパジャマから検出されたと主張しています。しかしながら、そもそも工場の混合油が放火に使われたものとは言えない点は、弁護人が第 2 回公判で、証拠を示して主張したとおりです。検察官が本日主張する証拠も、同じ静岡県警に所属する警察官篠田の鑑定です。「パジャマ上下につき目で見た範囲で、油の汚れも臭いもなかった」としながら、パジャマ上下に工場内の混合油の付着を認めています。

しかも、警察庁科学警察研究所の阿部鑑定は、「パジャマからは、ガソリンや潤滑油(混合種はこの二種の油から成り立っている)などの鉱物油は何ら検出されなかった」と結論付けています。東京医科歯科大学教授の中澤泰男は、篠田鑑定について批判しました。第一に「混合油と火災での汚染や、皮脂等の影響を受けた抽出油という条件の違うものの異同識別をする際には篠田鑑定の方法は適切でない」という方法の問題。第二に「篠田鑑定は結論が出せない所まで結論を出しており、明らかに言い過ぎである」という表現の行き過ぎについてです。一方、中澤鑑定人は、篠田氏が「パジャマから油成分を検出したと結論付けたこと」は妥当だろうといっていますが、この様な結論は、同人がパジャマの再鑑定をできなかったために「篠田氏が適切に処理をした」という前提に立って行われたものであり、篠田氏の処理が本当に適切だったかどうかは分からないのです。

篠田氏は、他の証拠物件ではしていない、無茶な検査を行いました。パジャマについてだけ、ほとんど全部を検査のために使用しているのです。捜査本部の記録にも、袴田さんのパジャマは、血痕検査と油の検査のために、「鑑定終了時には原形を全くとどめない状態になっていた」とあります。パジャマ全体を絞りあげて、何とか油成分を顕出しようと必死だったのでしょう。結局、そのために中澤教授による再鑑定も不可能になってしまいました。このような篠田鑑定を根拠に、「パジャマから工場の混合油が検出された」ということなど、およそ不可能です。

なお、単に油成分が検出されたというだけでは証拠としての意味はありません。袴田さんは、火災現場で証拠会作業をしていたのですから、これだけ必死で絞り出せば、少量の油成分が検出されても何ら不思議はないからです。なお、パジャマの実物も後に示します。

(4)証拠価値のないパジャマを悪用した取調官までいた

以上の通り、パジャマは、証拠として何の価値もないものでした。ところが、取り調べにあたった警察官は、次のように自白を迫りました。「パジャマの袖にべっとり血油がついている。犯人はお前しかいない」吉村検事はさらに「お前のやったことはパジャマの袖にべっとりついているこれでもう明らかだ」「二俣事件を知っているだろう。この被疑者なんか、警察でいつも知らない、やらない、と言っているから、爪楊枝で爪の間をぶつぶつされたぞ、お前もこれ以上警察に面倒かけるなら痛い目を見てもらう」などとまで言いました。

虚偽の事実を告げて袴田さんに脅しをかけて、自白に追い込んだのです。警察と検察は、「バジャマを着て犯行に及んだ」という自白調書を実に 50 通以上も作成しました。ところが、後に、検察官は「犯行着衣は 5 点の衣類」だと主張を変えています。それ自体不自然なことではないでしょうか。証拠価値のないパジャマを使って、どのような悪質な取り調べがなされたかについては、後の期日でも示します。

▶まとめ    証拠とされたパジャマは、犯行と全く結びつかない

■よって    検察官の主張する「犯人性」は成り立たない

 

3    刃物店店員は事実に反する供述をさせられた

凶器とされた「くり小刀」を売ったとされる店員は袴田さんの顔を見たこともない

(1)店員が、写真面割で袴田さんを選んだ「虚偽と告白」

検察官は、くり小刀を販売していた沼津市の菊光刃物店の店員・高橋みどりさんが 28枚の写真の中から袴田さんの写真1枚を選び出して「見覚えがある」と供述したと主張します。しかし、このみどりさんは、証言の後、本当は袴田さんの顔を覚えていなかった、と告白しており、同人の証言は事実を正しく述べたものとはいえません。高橋みどり氏は、第一審と高裁で2度にわたり証人尋問されています。しかし、後に弁護人に告白しました。                                           「本当は、警察官に示された写真の中に見覚えのある人は居なかった」「警察官にもその様に回答した」と。袴田さんの顔に見覚えがなかったことを認めたのです。このような高橋みどり氏の告白の真実性は、次のことからも裏付けられます。

第一に、同人が裁判所に証人として呼ばれた際、体調不良を理由に、診断書まで付して証言を避けようとしていた事実があります。

第二に、この「告白」は、捜査機関から「偽証罪」で糾弾されるリスクがあるにもかかわらず、TVのインタビューにまで答えたものです。

わざわざ嘘を言う理由がありません。信用性は非常に高いといえます。なお、検察官は、みどりさんと支援者らのやり取りの内一部を取り出して、みどりさんに対して不当な誘導がされたかのような主張をしています。しかし、その様な主張が誤りであることは会話全体を聞いて頂ければわかります。みどりさんは自発的に発言しているのです。そもそも、みどりさんが、何ら権力のない支援者らの気持ちを察して、検察や警察ににらまれるような嘘をつくはずがありません。みどりさんが告白したのは、真実を告白しなければならない、という一市民の素朴な正義感によるものなのです。

(2)数ヶ月前の一見の客を正確におぼえているわけがない

そもそも、高橋さんは、毎日70~80名の接客をしていると供述しています。このような多数の客の中から、数か月前に1度買い物に来ただけの客を覚えているということ自体が不自然です。また、捜査報告書によれば、「写真面割」は昭和41年7月14日午前中に行われ、高橋さんは、こがね味噌の従業員の顔写真28枚の中から袴田さんの写真を 1 枚選び「見覚えがある」と供述したとされています。しかし、この 28 枚の写真の中には袴田さんの写真が2枚入っていました。2 枚の写真は撮影時期も近く、いずれも袴田さんが単独で顔がはっきりと写ったものであったのに、1 枚のみを選んだとのは、いかにも不自然です。本当に、高橋さんが袴田さんの人相に見覚えがあるなら、2枚とも選ぶはずではないでしょうか。

更に、高橋さんに対する写真面割については、捜査報告書があるのみで、この時に高橋さんの供述調書は作成されていません。通常、写真面割を行う際には、写真台帳を作成し、その中に選び出された写真がある場合には、供述者の供述調書を作成して、写真台帳の該当する写真にも署名・押印を得るものです。しかし、本件においては、高橋さんの供述調書や写真台帳が作成されていないため、高橋さんが捜査報告書に添付された中でどの写真を選んだのかという基本的なことさえも明らかにできていません。本当に、高橋さんが、袴田さんの写真を選んだのであれば、当然、警察官はこれをもとに供述調書を作成するはずです。なぜ、このような基本的な作業を怠ったのでしょうか?

しかも、警察官は、高橋さんが袴田さんの写真を選んだという 7 月 14 日の後にも、同じ捜査を続けています。23 日に別の刃物店の定員に、袴田さんの面通しをさせています。高橋さんの店で袴田さんを特定できたのであれば、その後に、わざわざ別の刃物店の人に面通しをする必要はありません。この様な捜査をしていたという事実も、高橋さんが袴田さんを特定できなかったということを端的に示しています。

 

▶まとめ    「写真面割」とその証言には虚偽の疑いが大きく残る

■よって    検察官の主張する「犯人性」は成り立たない

 

4    売上金の所在を知っていることは犯人性を裏付けない

お金の所在を知っていた、というだけで犯人性を裏付けるなどありえない

検察官は「袴田さんがお金に困っていた」「事件前にみそ工場で売上金について話していた」などの点を犯人であることの根拠として主張しています。しかし、仮にそれが事実であっても、袴田さんが犯人であると推認する力などありません。そもそも、被害者宅に売上金があることは、従業員や会社関係者は皆知っていることです。このような検察官の主張を突き詰めていけば、「全ての金銭的に困窮している人は、強盗殺人を犯す動機がある」ということになってしまいます。論理の飛躍が限度を超えてしまっています。

検察官は、袴田さんがギャンブル好きの様な主張をしました。袴田さんが、賭け事をやったことがない、と言えばうそになりますが、少なくとも、こがね味噌で働き始めてからは賭け事などしていません。検察官の提示した証言は、全て、袴田さんが逮捕された後、更に自白したと大きく報道されて、裁判になった後の証言であり、いずれも噂の延長戦のような話であり、信用性はありません。むしろ、袴田さんに出資した男性すなわち袴田さんのせいで大損をした人物、更に元妻の父親などの人物らは、検察官の主張を否定する方向の供述をしています。本来であれば、袴田さんを快く思わないはずの人物らの供述調書、しかも、警察が作成したもの、にこの様な供述があることこそ、着目すべき点です。

また、袴田さんと会社の売上金の話をしたという水田義高さんや、松下さんの話をしたという橋本操さんは、その時の様子について、冗談だと受け止めており、笑って話していたと供述しています。水田さんの供述からは、袴田さんの話を不審に感じた様子はうかがわれません。なお、検察官は、市川進の供述で、袴田さんが「子供が事故にあった」と言ってちえ子さんから 1 万円借りた、と主張していますが、袴田さんは子供に三輪車を買ってやりたいからと伝えてお金を借りたのであり、同人の供述は信用できません(第 28 回 8-2795)。同人自身も、自分が聞いたわけではなく、記憶違いかもしれないということを認めています。

本件は「会社の売上金を盗む目的で、従業員が深夜、専務宅に凶器を持って押し入った」とされています。仮に従業員が犯人としましょう。専務一家と鉢合わせてしまったらどうでしょう。すぐに犯行が発覚してしまいます。仮に運良く窃盗に成功しても、会社の売上金がなくなれば真っ先に内部の人間が疑われます。この犯罪は、従業員にとって、途方もなくリスクが大きいのです。

犯人が、多額の借金を背負っており、夜逃げ覚悟で犯行に及ぶというのであれば、まだ話は分かります。しかし、袴田さんがそこまで困窮していた事実はありません。 袴田さんが、賃金を前借りしたり、質屋を利用したりする事実があったとしても、それは、かくも大きなリスクを冒して犯行に及ぶほどの事情とはいえません。袴田さんは、前借りした賃金は給料日にきちんと返済しています。質屋の利用についても、衣類を質入れするという程度で、金額も大きな額ではありません。袴田さんには、専務宅に押し入ることによるリスクを冒してまで、金銭を得なければならないまでの切迫した事情はありませんでした。

▶まとめ    売上金の所在を知っていたから「犯人」は無理が過ぎる

■よって    検察官の主張する「犯人性」は成り立たない

 

5    袴田さんの「アリバイ」を明示する証言の数々

 

捜査機関が隠蔽し、裁判所まで欺いた「証言」が開示された。

最後に、袴田さんの犯人性を否定する「アリバイ」について述べます。

袴田さんは、火災発生の直後から消火作業に加わっており、他の従業員にも目撃され続けました。これだけのことでも、袴田さんが犯人とは到底言えません。この点について、佐藤省吾、佐藤文雄、村松喜作、松浦等の同僚らは、法廷において一様に「火災直後は袴田巌を見ていない」などと証言していました。一方、袴田さんは一貫して、「火災発生直後から他の従業員と共に消火活動に従事していた」と主張していました。

しかし、第 2 次再審請求審における証拠開示により、袴田さんが、従業員らに火災発生の「サイレン」の直後から、鎮火まで、空白の時間なく、目撃されていることが明らかになりました。火災発生後の現場の状況と袴田さんの動きを整理します。

午前2時10分頃、火災発生の通報(現場記録鑑識編)がなされました。工場・寮においては、佐藤省吾・松浦・岩崎・袴田巌がサイレンに驚き飛び出していきました。(41.6.30 松本部長外1名捜査報告書、41.6.30 森田部長外1名捜査報告書等)。袴田さんは、まずここで従業員に目撃されています。

そして、消火作業の最中に、被害者宅裏口付近の、専務宅物干し台には、人が登り始めていました。ここに登ったのは、まず、村松喜作でした。その後、袴田巌が登り、佐藤省吾も加わりました。初めのころは、皆、物干台の隣にあった杭をよじ登って物干台にたどり着いており、袴田さんがこの杭を登ろうとして滑ったりしているのも、佐藤省吾等に目撃されています。そして、佐藤省吾や袴田巌、山口元之らは、のこぎりやバールを探し回って、物干台と工場の間を行ったり来たりしていました。この時に、線路の上を行ったり来たりしている袴田さんも従業員に目撃されています。

このような作業の際、袴田巌、佐藤省吾、及び村松喜作は手等にけがをしたのです。上記のような作業の最中に、山口元之は、専務宅と工場の間の線路上で、専務宅から工場に向かうパジャマ姿の袴田さんを目撃しました。目撃後すぐに山口元之が工場に行って時計を見ると、2時30分だったとのことです(山口元之員面調書 41.8.20)。

従業員たちは、裁判になると「火災発生時には袴田さんを見かけなかった」と、供述を変遷させてしまいました。しかし実際には、袴田さんは、昭和41年6月30日午前2時10分頃のサイレンとほぼ同時に、従業員によって目撃されています。その後も他の従業員に交じって消火作業を行っている姿が絶えず目撃されました。火事が治まった午前2時32分頃まで、です。

ここで、裁判官には改めて「5 点の衣類」のことを考えていただきたいと思います。ここに述べたとおり、火災発生直後から、従業員らはホースやバールなどを探すために、入れ代わり立ち代わり、工場に出入りしました。そのような中で、袴田さんが血まみれの5点の衣類を麻袋に詰め込んで、人知れず「1号タンク」の中に隠すなどということが可能なのでしょうか。

また、佐藤省吾や、袴田さんのルームメイトの佐藤文雄は、供述調書等において事件発生時に袴田さんの部屋には全く変わった様子が見られなかったことを供述しています(41.7.15 森下他1名捜査報告書、41.7.18 佐藤文雄員面調書等)。さらに、7 月 4 日に行われた袴田さんの部屋の捜索の際にも、血の付いた衣類をそこで着替えた痕跡も、認められませんでした。この点も証拠で示します。

どのような角度から見ても、袴田巌さんが事件直後に、5点の衣類を1号タンクに隠したという認定は、誤りというほかありません。

 

▶まとめ    火災発生時、袴田さんには確たるアリバイがあった

■よって    検察官の主張する「犯人性」は成り立たない

結語

以上述べたことをまとめます。

46年余りの歳月を経てやっと明らかになった現場の状況から勘案すれば、袴田巌さんは、専務ら4名を殺害してその家を放火した犯人ではありえません。もちろん、事件直後に5点の衣類を1号タンクに隠してもいません。 袴田さんが犯人である、という立証など、とうてい不可能なことです。

▶まとめ    とりあげたすべての事項が「袴田さんの無実」を支える

■よって    検察官の主張する「犯人性」は成り立たない