11月10日第2回再審公判開催される
10月27日、再審公判が静岡地方裁判所で始まった。引き続き第2回公判が11月10日に行われた。
第2回再審公判 2023年11月10日
出席者
裁判官3名 裁判長:國井恒志 裁判官:益子元暢 裁判官:谷田部峻
検察官3名 丸山秀和 島本元気 岡本麻梨奈
弁護人14名 西嶋勝彦 小川秀世 小澤優一 田中薫 笹森学 村崎修 水野智幸
伊豆田悦義 角替清美 間光洋 加藤英典 伊藤修一 西澤美和子 白山聖浩
被告代理人 袴田ひで子
検察官の主張①についての弁護人の冒頭陳述
1. はじめに
検察官は、第1回再審公判においても、本件は袴田さんの犯行であるとして従前同様の有罪主張の下、立証をされています。
しかしながら、起訴状は昭和41年6月30日午前1時30分頃被害者宅に侵入しとあるが、どこから侵入したのか、被害者ら4名をどのような順番で、どこで襲い刺傷したのか、奪ったとされる金品の保管場所、奪取方法も明らかではありませんでした。そして、検察官は冒頭陳述でも侵入方法については主張もなく、被害者らについては遺体発見場所だけであり、金品奪取は夜具入れの中にあった甚吉袋の中から自分で取り出すか被害者のいずれからかに交付させたなどと主張しました。
本件は、検察官が想定するようなみそ工場関係者の単独犯による犯行ではなく、外部の者それも複数犯によるもので、被害者らは起きていたこと、物取り・強盗ではないこと、被害者宅にあった電話器は端子板ごとひきぬかれており、表シャツターは鍵がかかっておらず犯人らはそこから逃走したことなどは、被害現場の状況や被害者らの遺体状況が示しています。
2. 検察官は、まず犯人はみそ工場関係者であることが強く推認される上、犯人の事件当時の行動を被告人がとることが可能であったと主張しました。
しかし、6月30日、7月1日、2日と現場検証が行われ未だ捜査が始まったばかりで、犯人がみそ工場関係者であることなど全く想定できませんでした。そうした中、7月3日被疑者不詳のまま、みそ工場の捜索差押令状が請求され、4日にはみそ工場内の捜索がされました。そして、この日、袴田さんがその朝まで使用していたパジャマや直前まで着ていた作業衣、工場にあった混合油入り石油缶の任意提出をさせました。
なお、前回の公判で検察官が請求した証拠の検証調書、実況見分調書等50点以上が7月4日以降に作成されたものばかりで、袴田さんを犯人と決めつけた後に作成されたものです。弁護人はこれから、検察官が、主張している犯人がみそ工場関係者であり、被告人が犯人の行動をとることが可能であったとの主張・立証は認められないことを、証拠により明らかにします。
⑴ 犯人がみそ工場にあった雨合羽を着て犯行現場に赴いたことはないこと
検察官は、被害者宅中庭に雨合羽が落ちておりそのポケットからくり小刀の鞘を発見したと主張し、犯人が雨合羽を着て来たものだとしています。
そもそも、雨も降っていない中、重くてゴワゴワと音がする雨合羽など、夜中に侵入しようとする者が着用するでしょうか、理由がありません。
検察官は、6月30日午前4時頃雨合羽を発見し、右ポケットから鞘を発見したと主張しています。しかし、雨合羽を発見したとの捜査報告書の発見時刻は、当初は午前11時15分と記載されていたのが、その後午前4時と訂正され、写真もありません。雨合羽が午前4時に発見されたのだとしたら、その後実況見分がされるまでの間この雨合羽は警察がどこかに保管していたものです。午前4時に発見されたというのは、本当でしょうか。
その後、7月6日付で作成されている実況見分調書になって初めてポケットに鞘が入った写真が添付されています。また発見されたとする雨合羽の下には、火災により焼けたガラスの破片の焼けて変色したものなどがありました。雨合羽は火災後に誰かによってここに置かれたことが明らかです。なお、6月30日に行われた春田辰夫・黒柳三郎の検証調書のどちらにも、雨合羽についての記載はありません。
また、検察官は再審公判において、この雨合羽には血がついていたと主張し鑑定書を請求していますが、これら6月30日付雨合羽捜査報告書と雨合羽の7月6日付実況見分調書には、血の付着については何も触れていません。
また、ポケットの中にあったという鞘からの指紋についての証拠は、弁護人の証拠開示請求にもかかわらず、いまだにあるかないかさえ回答がされていません。
⑵ 検察官は、この雨合羽は、みそ工場の従業員の物で、事件当夜はみそ工場にあった可能性が高いと主張しています。
そして、本件雨合羽は事件前の昭和41年6月28日午後3時半以降はみそ工場に置かれており持主だった本人は使用していないとしています。
ところが、昭和41年6月28日には台風により午後3時半以降午後6時までの間も雨が降っており、その間に誰かが使用した可能性も否定できません。さらに、複数の従業員が工場の三角部屋にかかっていた雨合羽を消火作業の際に使用したとの証言もあります。そもそも、個人に支給されていた雨合羽の保管・管理は厳格ではなかったので、その他消火作業中に雨合羽を使用した者がいなかったかなど、雨合羽の使用状況について事件後に十分な捜査はされていませんでした。
⑶ くり小刀の刃が発見されたこと
検察官は、被害者家屋内の次女の遺体のそばから発見されたくり小刀の刃体を凶器と主張しています。
この凶器とされたくり小刀は柄のない状態で発見されています。そしてその場で本件の凶器と思われるとして押収されました。
くり小刀の柄は放火後に焼失したとされていますが、同種とされるクリ小刀の柄の周りにはプラスチックの縁があります。本件で焼失したとするくり小刀の柄の周囲には溶解した残存物もなく、柄が炭化した灰も残っていませんでした。くり小刀が段ボール箱の焼け残り付近にあったことから、柄がなくなって使えなくなったくり小刀の刃が段ボール箱の中に入っていた可能性が高いと考えられます。
くり小刀は、木工用で樽などに使う職人用の小刀で、被害者の家はみそ製造業をして樽などを扱っていました。被害者宅には、このくり小刀の刃体の他にも使われていない柄のない登山ナイフ、小刀、大工道具などが多くありました。
くり小刀の刃体もこれらのうちの一つではないでしょうか。
⑷ くり小刀は被害者らの傷を形成した凶器なのか
検察官は、被害者らの傷は細長い形状の刃物で形成されたものであると、被害者らの、傷についての刺入口の幅や傷の深さを根拠にしていますが、被害者の傷の計測が正確性を欠くとの指摘がされています。
また、発見されたくり小刀の刃は被害者4名の傷を形成するのに恰好なものであると主張し、検察官は、上野正吉鑑定が存在するとしています。
上野正吉鑑定は、参考として提出されていた新品のくり小刀を使用しており、実際の刃先が欠損したくり小刀を参考にすらせずに行われたものでした。
法医学者押田茂(しげ)實(み)教授、医師横山正義教授らの鑑定によれば、上野鑑定が用いた新品のくり小刀を前提にしても、被害者らには形成することのできない創傷が存在し、まして欠損した本件くり小刀をもって唯一の凶器とすることを否定しています。
しかも、くり小刀の形状を見ていただければわかるように、くり小刀には、鍔がありません。被害者らには40ヶ所にも及ぶ刺傷等があったというのですから、刃の部分と柄の部分の間に鍔がなければ、犯人の手のひらは、血で滑ってしまうはずで、犯人は手のひらに深い傷を負っていたはずです。
また、被害者宅では、家族の他従業員の食事を用意していました。
現場検証では、便つぼの汚物をくみだし、浴槽の水を汲みだすなどの捜査がされ奥の戸棚の中には使われていない包丁がありましたが、被害者宅で日常的に実際に使われている包丁は一本も発見されていません。犯人が凶器として包丁を使い、犯行後これを持ち去ったとも考えられます。
⑸ さらに、検察官は、くり小刀の刃は雨合羽にあった鞘のものであると主張しています。
また雨合羽から人血が検出されたとして、これまで提出も開示もしてこなかった鑑定書を今この再審において新たに提出してきました。
ところが、先に述べたように雨合羽の発見時には血痕が付着していたなどという報告はありませんでした。検察官は雨合羽を脱いで犯人が犯行後わざわざ雨合羽に触ったと主張していますが、その必要も考えられません。仮に犯人が雨合羽を着用して、犯行に及んだとしても、血液型も不明なものでした。
それよりも、凶器とされたくり小刀の刃体につき、血痕鑑定がされていますが、鑑定の過程では錆や付着物をそぎ落としたものからも、刃体からも人血の付着
はなかったとの結果が出ています。また刃体の刻印銘を知るためになされた鑑定
では、薬品を使い洗浄し、電解研磨がされるなどしています。それでも判読できないものがあるなど、刃体は古いものだったのではなかったでしょうか。
その後この刃体と鞘が一体の物かについては、鑑定・検証などはされていません。
検察官は、製造元を調べただけで、鞘と刃体が一致したとしていますが、それだけで、鞘とくり小刀の刃体とが一致したとは、到底言えないでしょう。
3、犯人がみそ工場にあった混合油を放火に使用したことには疑問があること
⑴、検察官は、放火には、工場にあった混合油が使われたと主張しています。
放火に使われた油が何であったかは、まず最初に調べられなければなりません。
そのためには、被害者らの着衣や、周辺にあった毛布等から、まず放火に使われた油がどんな油であったかを特定するための鑑定がされるのが捜査の常道のはずです。
7月3日には、これらの鑑定がされないまま、工場にあった混合油の任意提出がされています。そして放火に使われた油が何かを確定しないまま、混合油が放火に使われたものとして、工場の混合油との同一性を問題としました。
なお、被害者藤雄の死体のすぐそばには、4リットル用のブリキの石油缶が放置されており、中身はほとんど残っていなかったことが明らかになっています。犯人はそれを使って放火した可能性はなかったのでしょうか。燃焼状況の検査では、このあたりが最も強く焼燬していました。この石油缶についての捜査がどこまでなされたかは証拠上不明です。
⑵ みそ工場の混合油がなくなっていることは本当か
検察官は、みそ工場に保管されていたモーターボート用の混合油の18リットル入り缶から約5.6リットルの混合油が減少していたとしています。
そして、この混合油が、放火に使われたとしたのです。
混合油、5.6リットル分は本当になくなったのでしょうか。
混合油は、モーターボートに使われていたもので、実際には、モーターボート内には4リットル缶が2本あり併せて6リットルの混合油が入っていました。
また、モーターボートのタンクの混合油については、計量がされていませんでした。「なくなった」とされる混合油はまさにモーターボート用の物ですから、この4リットル缶の中に移されたと考えれば丁度数字が合いますし、そうでなくても、モーターボートのタンクに移されたのかもしれません。
事件前、配達された18リットル缶のうち1缶をそのまま持ち出さなかったということも、事件前に缶の中に混合油が満タンにあったことも明らかではありません。混合油を使った者がいないかにつき従業員全員について調査したと主張していますが、その捜査を尽くしたとの具体的な結果は示されていません。
ところで、検察官は、被害者宅と工場とは30メートル余りしか離れておらず混合油は工場から運ばれて放火に使用されたと主張しています。
この5.6リットルの混合油について、工場から犯行現場まで、どのようにして運んだかについて今回検察官は明らかに主張されていません。缶から5.6リットルの混合油を何かに移し運んだのでしょうか。
従前検察官は混合油をみそのポリ樽に入れて運んだとしていました。
工場と被害者宅との間には国鉄東海道線上下線の線路があり事件発生当日午前1時から2時の間には工場と被害者宅との間には国鉄東海道線上下線の線路があり、およそ4分おきに列車が通過していました。工場から被害者宅まで30メートル余りとはいえ、線路の幅は約8.5メートル、高さは道路から40センチあります。この線路を渡り、深夜運ぶのは大変です。石油缶には十文字に縄がかけられていましたから、常識的にはそのまま運ぶはずです。
この点は、混合油を入れて運んだとされるポリ樽と石油缶の実物を示します。
⑶ 混合油の鑑定について
検察官は、放火に使われた油の鑑定について、静岡県警において、鑑定が行われたとしています。
ところがこの鑑定は6月30日、7月1日、7月4日、8月6日の鑑定嘱託に基づく本来別々に行われなければならない4回の鑑定がまとめて行われています。
3点を除いた資料に混合油の付着、それも工場内の混合油との同一性を認めています。
そして、この篠田鑑定ではパジャマ上下につき目で見た範囲で、油の汚れも臭いもなかったとしながら、パジャマ上下に工場内の混合油の付着を認めています。
検察官は、また警察庁科学警察研究所の阿部鑑定も同様の結論であり、中沢康男鑑定もこれを支持しているとしています。
しかしながら中澤泰男鑑定は、いずれの鑑定も、混合油と火災での汚染や、皮脂等の影響を受けた抽出油という条件の違うものの異同識別をする際にはガスクロマトグラフィーによる方法については適切でないと批判しています。
そして、中澤鑑定は、自らが鑑定したパンティ―に、混合油が付着していたかについては鑑定不能という結果でした。
中澤鑑定は検察官主張のような、篠田・阿部鑑定を支持したものではありません。篠田鑑定の証拠価値については、放火に使われた油と混合油の同一性の鑑定は不能だったというのが科学的に言える限界だとしています。
⑷ 本件缶から人血が検出されたこと
検察官は、混合油の18リットル缶に人血の付着が 確認されたと主張しています。
この混合油の缶が押収されたのは、検察官も主張されたように7月4日です。その後に、この缶の中の油の計量をしています。
ところが、この缶についてルミノール噴霧によるサンプルの採取が行われたのは8月11日です。その後、8月25日に缶の側面4か所から採取したサンプルの内の2か所から陽性反応が認められたと、いうだけで血液型の判明もできなかったものでした。
そして、さらに8月16日にも同じ缶からサンプルの採取が行われています。再度6か所のサンプルを採取した結果も、1か所陽性反応が認められたたが血液型検査も不明でした。検察官は、先日の証拠調べではこの再度の検査・鑑定には全く触れていません。
そもそも、この石油缶の写真を見ても、血痕が付着しているようには見えません。これらについても後に写真を示します。
しかも、これら2度のルミノール検査で人血反応が陽性になった場所は全て缶の側面です。犯人が混合油を缶から移したのであれば必ず触るはずの蓋や底、縄などには何の反応もありませんでした。
この缶に、本当に血痕が付着していたのであれば、7月4日に押収した直後に直ちに血痕の採取と検査を行うはずではないでしょうか?ところが、そのような捜査は行われていません。袴田さん逮捕の直前になってこれらの検査は行われたものです。それはなぜなのか。証拠がない中、逮捕するための証拠を必死で探していたと考えるのが自然ではないでしょうか。
4、事件当夜、犯人がみそ工場に出入りしたことをうかがわせるその他の事情
検察官は、犯人がみそ工場に出入りしたことをうかがわせるその他の事情があると主張しています。
⑴ その1点として、被害品の布袋が、藤雄方とみそ工場の間に落ちていたことを挙げています。
被害者宅裏口付近で発見された金入布袋は、被害者宅表8畳間の奥の夜具入れの中にあった甚吉袋から奪われた3個のうち落とされた2個だとしています。
被害者宅にあった甚吉袋には8個の金入布袋が入っていたものです。甚吉袋は火事の後にも夜具入れの中にしまわれたままでした。4人を殺害してまで金を奪おうとした犯人が甚吉袋ごと奪うのではなく夜具入れの中に戻しておくことも、その中から3個だけ持ち去るなどということは著しく不自然です。金の入った布袋5袋を犯人が現場に残しておく理由ありません。
また、現場検証で被害者宅にはほかにも多くの金品がありました。強取目的であれば、これ等の金品も持ち去るのではないでしょうか。
ところで、2個の金入布袋が発見された場所は、3メートルしか離れておらず、いずれも状況は落としたというよりも置かれたという状況です。検察官は発見された場所を、被害者宅とみそ工場の間で、従業員が行き来する経路上だと主張しています。そのように言えるのか、それについては後に写真や図面で示します。
金入布袋が発見されたのは裏木戸付近ですが、この裏木戸は表に鉄板が張られ、2枚の扉で内側に開けるものでした。その上、事件当時、かんぬきや止め金で頑丈に閉じられており、人が通過することは出来ませんでした。
消火活動の際、消防団員が大きな石を投げつけ足でけるなどしてようやく開けたのです。裏木戸に関する、袴田さんの取調べ状況もここで示します。
裏木戸近くで、金入布袋が発見されたことは、犯人が裏口から脱出したということにも工場と結びつくことにもなりません。
ましてや、先ほどもお伝えしたとおり、まさに事件発生当日午前1時から2時の間には、工場と被害者宅の間を走る東海道線には、およそ4分おきに列車が走っていました。
⑵ みそ工場内の風呂場等で血痕が確認されたことについて
検察官は工場の風呂場の壁面や工場の2階事務所西側壁に血痕が付着していた
と主張しています。これは7月23日採取されたものです。事件後23日も経ってから事件現場から遠く離れた工場の風呂場で採取された微量の血痕が事件と関連していると考える方がおかしいのではないでしょうか。しかも、この血液型は袴田さんの型とは異なっています。
なお、同じ時に被害者宅により近い工場の出入口くぐり戸から採取された物からは血痕の付着はありませんでした。
5、被告人は、みそ工場の従業員寮に居住しており、証拠から推認される犯人の事件当時の行動を、被告人がとることが可能であったことについて
検察官は、事件当日袴田さんが寮の部屋に一人だったと主張していますが、袴田さんのいた部屋の隣には、検察官も主張するとおり佐藤省吾と松浦光男が寝ていました。
当夜同室の居住者はおらず、袴田さんは一人でしたが、被害者宅により近い工場の宿直室には岩崎和一が一人で寝泊まりしていました。しかも、廊下の電気もついていたにもかかわらず、検察官も主張するとおり、同人は事件当夜誰かが出入りした気配などは一切感じていませんでした。
検察官は、これまで、火災発生直後に袴田さんを目撃したと証言する者がおらず、「袴田さんにはアリバイがない」という点を袴田さんの有罪の根拠の一つと主張していました。しかし、検察官が今回主張しているのは、この事実ではなく、単に「1人で寝泊まりしていた」という事実になっています。
「アリバイがない」については、第2次再審請求における証拠開示によって、実際には従業員らが火災直後から袴田さんを目撃していたという事実が明らかになりました。
検察官は、袴田さんが、他の従業員に気付かれずに、味噌工場から雨合羽や混合油を持ち出し、犯行後にみそ工場に戻ることが可能だったと主張していますが、たんなる抽象的な可能性の主張にすぎません。
検察官の主張に従うと、犯人は、寮の自室から所有保管していたくり小刀を所持して向かいの部屋に寝ていた二人の従業員に気づかれずに階段を降り、工場にあった雨合羽を着て、宿直の従業員にも気づかれずに工場を出て線路を渡り、被害者宅のどこかから侵入し、脱いだ雨合羽にくり小刀の鞘を入れ、被害者らが居住する空間に入り込み金員を物色し、くり小刀で被害者らを順次刺傷し40ヶ所もの傷を負わせ、金入布袋3個を奪って、被害者宅を脱出し、その途中そのうちの2袋を被害者宅裏木戸近くに落とし、線路を渡って工場に戻り、工場内の混合油の缶から5.6リットルの油をポリ樽に入れて再び線路を渡り、被害者宅に入り4人に混合油をかけて火を放って、被害者宅から逃げ帰り工場に戻ったとの行動をとったというものです。さらにその後着ていたものを着替え、それらをどこかに隠したということも加わります。そして検察官は袴田さんがこの行動を取ることが可能であったことを主張・立証するとしたのです。袴田さんがそのような行動をとったことは到底認められません。
7月7日袴田さんから任意提出させたゴム草履には血も油も、どちらも付着していませんでした。警察は、血も油のどちらも付着しておらず陰性だったとの連絡を受けながら、これ等についてはなにも書類作成など証拠化すらしなかったのです。
袴田さんが検察官の主張するような行動をとった意味ある証拠は何もなく、袴田さんがそのような行動をとっていないことこそ明らかです。